Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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東海村2




*通し番号3:属性;女性・30代・ケアマネジャー
1.
<b>:
世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う。延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う。

2.
<b>:
技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子供がまた子供を産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか。生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う。

3.
<b>:
世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる。しかし、親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定出来ない。技術的なことを加えるよりその選択もありではないかと思う。


一人の人間が、この世に生を受けた以上、健康で暮らして欲しいといった、一見素朴で誰にもありがちな、その意味でありふれたことを語った(書いた)としても、その言葉が置かれる文脈は、人により様々に異なっている。もちろん、この文脈は、ある一つの文や発話とその前後の文や発話との関係から問われ得るし、またこうした文や発話がそこに置かれる他者とのコミュニケーション状況からも問われ得る。ここでは、複数の文の前後関係から考えてみたい。この場合、比較的単純な文脈として、ある文とその文に引き続くいくつかの文との関係を考える。
「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」という記述と、「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述を合わせて考える上で、私たちが想定できる文脈はどのようなものだろうか。言い換えれば、これら二つの文が位置する文脈はどのようなものなのか。さらには、これら二つの文が位置する文脈に、冒頭のテーマ文はどのような関係を持っているのか。この最後の問いは、冒頭のテーマ文に対して、これら二つの記述が位置する文脈を形成する力を想定している。
前者の文だけを見ると、先に述べた一見素朴で誰にもありがちな、ありふれた言葉に思える。だが、これら二つの文のまとまりをその相互関係に着目して見ると、ある複雑さが生じてくる。既述のように、冒頭に示したテーマ文1が、これら二つの文が位置する文脈を形成する力を持つと想定しよう。すると、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もある」までの記述では、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えるという「医学の進歩」によって、それなしにはあり得なかったはずの健康な生が可能になるという状況が言及されていると言える。こうした状況は、「医学の進歩」によって生じた「喜びや希望」である。すなわち、「医学の進歩は喜びや希望もある」。
もちろん、ここで「医学の進歩」の事例として遺伝子改造が想定されていると直ちに断定することはできない。だが、テーマ文1を受けた「医学の進歩は喜びや希望もある」という記述に引き続いて、「そればかりではないのではとも思う」という記述がなされている点に注目するなら、そうした可能性は高い。
だとすれば、先の二つの記述、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う」と「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」は、以下のような文脈関係にあると言える。すなわち、他者の(または自分の)子どもに関して、場合によっては遺伝子改造を行うことも想定した上で「健康で暮らしてほしいと思う」一方で、そのような医学の進歩によって、必ずしも喜びや希望があるとは言えない生がもたらされる可能性も考えられるということである。
もっとも、二つの記述の関係を巡る以上の解釈は、これら記述から想定され得る以上の意識化のレベルを読み込んでいると言えるだろう。それはこういうことである。すなわち、先の二つの記述を行った個人は、上記の解釈に見られるような意識化のレベルに達してはいなかった。むしろ、より漠然とした意識レベルにあったのではないかということである。とはいえ、上記の解釈より無意識的であったとしても、この解釈の射程内にあったと判断できる。
また、上記解釈の意識化のレベルにあったと仮定しても、遺伝子改造それ自体の持つ意味については意識化されてはいないと言える。言い換えれば、この個人が上記解釈の意識化のレベルに達していようといまいと、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述から可能な解釈の射程距離は、遺伝子改造それ自体が持つ生命の選別というテーマには届いていないと考えられる。この個人が、遺伝子改造を含む医学の進歩は喜びや希望をもたらすかもしれないが「そればかりではない」という認識に留まっている限りは。
 次に、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述だが、ここで、「延命方法により……ならないのではないか」は、「延命方法の如何によっては、個人の(命に対する)尊厳を無視することには(必ずしも)ならないのではないか」と読める。だが、このことは、次の「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないかと思う」という記述とどのような文脈関係にあるのか。あるいは、これら両者をつないでいる「つまり」という言葉は、どのように機能しているのか。
ここで考えられている「延命」が、高度な医学的介入によるものかどうかは判然としない。一般に、現代医学においては、「延命」と「高度な医学的介入」はほとんど同義であるはずだが、このことが認識されているのかも判然としない。また、これら両者が必ずしも同義ではない可能性についてあらためて考察されているわけでもない。ここでは、個人の生命の尊厳を無視しない延命(医学的介入)方法と無視する延命(医学的介入)とが区別されているように見える。だが、その基準は具体的にどのようなものなのか、明確に読み取ることはできない。とりわけここで言及されているように見える「個人の生命の尊厳を無視しない延命(医学的介入)方法」が具体的にどのようなものなのか、明確に読み取ることはできない。従って、「世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」という記述と、「延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか」という記述の両者が、ある一定の文脈を形成することは困難であると言える。
さらに、もしここで、高度な医学的介入という意味で延命を考えるなら、「つまり」という言葉によって、そうした延命を、「ひとつの生に対して純粋に受けること」とどのように関係付けることができるのか。高度な医学的介入が、同時に「純粋に受けること」でもあるというどのような状況が想定可能だろうか。そもそも、「ひとつの生に対して純粋に受けること」とは、どのようなことなのか。それは、「ひとつの生の純粋な受容」と言い換えられ得るのか。もしそうだとしても、「ひとつの生の純粋な受容」とは、一体どのようなことなのか。少なくてもここでの記述から、これらの問いに答えることは困難である。
この「つまり」という言葉は、それ自身の前後の文が位置する文脈を決定する力を持たない。むしろ、この言葉の前後には、ある一定の文脈を形成することの困難な記述が位置している。だとすれば、この言葉は、これら接続困難な記述同士の間に存在する、この記述を行った個人の経験を表現している。そこに表現されていのは、何らかの判断へと至る道を見失った、揺れ動く個の生存の経験である。
この解釈は、先の記述が行なわれたその段階に限ってのものである。この意味において、この「何らかの判断へと至る道を見失った」という表現は、やや過剰なものであったと言えるかもしれない。テーマ文に対する「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」といった記述の表現はやや分かりにくいが、少なくてもここには、これまでには見られなかった、「技術的に作られた生」は必ずしも完璧ではないのではないかという懐疑の意識が発生している。これは、テーマ文に対する懐疑的な文脈の発生として捉えることが可能である。ここで重要なのは、このような文脈の発生という過程が、個人がテーマ文と向き合う中で一連の記述を行なっていく過程それ自体でもある、ということである。先に、「この解釈は、先の記述が行なわれたその段階に限ってのものである」と述べたのは、こういった文脈の発生過程を考慮したからである。
さらに、この個人によって、遺伝子改造をも含む生殖技術が、社会的・文化的に言わば世代間連鎖する可能性も着目されている。すなわち、この連鎖によって、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という「必要性」が強制力として作用する可能性が認識されている。ここには、「個々人の選択」という事態に対する再帰的な(メタレベルの)認識の発生が見られる。言い換えれば、ここでは、私たち個々人が、いったん遺伝子改造という技術によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは(さらにはそれ以外の社会の成員も)、技術的な子どもの生産という「強制力を持った必要性」による支配あるいは制御のもとへと組み込まれるのではないかという認識が発生している。
以上のような記述を想定することによって、ある個人が「何らかの判断へと至る道」が形成されていく無意識の過程を同時に想定することが可能になる。ある一つの記述の断面においては明確な文脈が不在であるように見えても、その断面がさらに別の記述へと接続していく展開過程を追跡することにおいて、何らかの文脈の生成過程を垣間見ることがあり得るのである。
「ある個人が何らかの判断へと至る道が形成されていく無意識の過程」という表現は、個人が何らかの判断や認識にいたる過程は必ずしも意識化されないと読むことができる。また、こうした無意識の過程を通じて得られた判断や認識は、そうした判断や認識を表出する発話や記述がなされた後ですら、必ずしも意識化されないと読むこともできる。
だが、この同じ個人が無意識の過程を意識化していく過程も想定できる。言い換えれば、ある個人が何らかの判断や認識へといたる無意識の過程が、同時に、この個人にとって何らかの判断や認識へといたる道の意識化過程となる。すなわち、ある個人が何らかの判断や認識を形成していく無意識の過程は、この個人がその判断や認識を意識化していく過程でもあるということだ。先の事例においては、これは、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」といった記述の生成過程において、またそうした記述の生成過程として想定された。
だが、ある個人の判断や認識の無意識的な形成過程であり、同時に意識化の過程でもあるこうした過程は、必ずしも一定の方向を持ったものではない。言い換えれば、この過程は、ある一定の方向へと向かって、常に一層高い意識化の段階を経ていくといった過程ではない。そのようなヘーゲル的な「精神の現象学」はここには存在しない。また、無意識の過程や意識化の過程の基底となるような「主体」も想定されていない。
他方、ある判断や認識へといたる意識化の過程が、同時に、ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと変容していくこともあり得る。この変容過程を、ある別の判断や認識へと向かって分岐する創発的な過程として考えることができる。この過程は、ある判断や認識の無意識の形成過程であり、同時にその意識化の過程であり、さらに他の判断や認識へと分岐していく無意識の創発過程である。
次に、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という記述の分析に移る。先に、この個人は、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を認識したのではないかという分析を行った。その際、この個人がこうした認識をどの程度意識化し得ていたのかについては想定されていなかった。だが、もしこの個人がこうした認識を得たのであれば、この認識を形成した意識的・無意識的な過程が、同時に、「ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと変容していく」何らかのきっかけになったとも言える。すなわち、この個人が、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という「ある別の判断や認識」へと向かったきっかけは、先に見た技術的な力に関する認識の意識化であるとも言えよう。
とはいえ、私たちは、私たちを含む個々人がある判断や認識へといたる意識化の過程が、同時に、ある別の判断や認識へと向かう無意識の過程へと分岐し変容していくという事態を、何らかの因果的関係のもとで認識する力を持っていない。私たちは、生成された個々の判断または認識(の過程)に関してはともかく、判断または認識の生成過程自体に関する同時並行的なメタレベルの認識を持ち得ない。また、複数の判断または認識の生成過程が分岐しつつあったとしても、それら生成過程相互の関係へといたる認識を持ち得ない。先の「個人がその判断や認識を意識化していく過程」という表現で述べられていたのは、結果として得られた判断や認識から想定した意識化過程に過ぎない。私たちにとって、ある判断や認識の生成過程と、ある別の判断や認識の生成過程とは、何らかの偶然的な創発過程としてのみ互いに関係づけられている。ある判断や認識の生成が他の判断や認識の生成の「きっかけ」となるという事態は、任意の個人にとって予測不可能な出来事である。
「生きるということについて、生きること以上の欲はない」という記述は、それ以上の分析が困難なものとして生成している。ここで「生きること以上の欲はない」というその欲望は、どの程度普遍的なものなのか。例えば、生殖細胞の遺伝子改変を不可避的に伴う「治療」をこの欲望は受容するのか。また、ここでの「生きること=欲」は、「何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康な生」を求めて、高度な技術を生み出したり利用したりするものなのか。
さらに、この記述は「技術的に作られた生」に関する直前の記述とどのような文脈を形成しているのか。この個人が、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を認識したとするなら、この認識が「きっかけ」となって、そうした強制力が「生きるということ」そのものを貫く欲望=力として捉え返されたのか。
だが、ここでこれらの問いに対して明確な答えを探ることは困難である。この分析の困難さは、先に見た「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」という記述に関して見た分析の困難さと共鳴している。
これまで見てきた、「ひとつの生に対して純粋に受けること(の大切さ)」、「技術的に作られた生(の完璧さに対する懐疑)」、「生きること以上の欲はない」といったそれぞれの判断や認識(を表出する記述)は、一定の文脈を形成しているというよりも、むしろそれぞれが新たに分岐した過程において創発されたと捉えることができる。しかし、このことは、いかなる文脈の想定も不可能であるということではない。先に述べたように、その都度何らかの無意識の文脈の形成過程が想定されているし、またそうした文脈の意識化過程も同様に想定されている。だが、この文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である。これまでの分析によって、このことが明らかになった。
「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果は、あくまでも当該の分析対象に関する暫定的なものであった。また、直ちに普遍化可能なものとして得られたのでもなかった。しかし、この分析結果を普遍化する道もあり得る。実際、これまでのほぼ全ての個々の分析が、こうした認識を示唆していたと言える。文脈の生成は、優れて無意識的・仮想的なものであり、同時に意識化され得るものであった。だが、それだけに、何らかの文脈の生成は、「この私にとってリアルなもの」である。それは、脳科学者の茂木健一郎氏の表現を借りるなら、「この私というクオリア」の生成である。無意識的・仮想的なものであり、同時に意識化され得るというこの文脈の二重性が、私たちの生存の根底において見出された。なお、茂木 健一郎氏は、 『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』(PHP,2005.)において、以下のように述べている。
「偶有性(contingency)は、硬い因果的連鎖とは異なる概念であることに注意しなければならない。硬い因果的連鎖は、コントロール可能なシステムを生む。偶有性は、系が完全にはコントロール不可能なことを認めた上で、それでもそこに有機的な秩序を自己形成するための概念装置なのである」(p.112.)
「創造性を支える文脈とは、すなわち、自らの置かれた生の現場を「自分のこととして」一人称的に引き受ける文脈のことである。そこには、こざかしい批評も、流通性、交換性への顧慮も本来的にはあり得ない。他でもない、かけがえのない「この私」に関する文脈だからである」(P.187.)
 テーマ文3に対する応答においては、「障害を持った生を自ら肯定すること」への着目が見られる。こうした着目が可能であること自体、このような個人の生に対する肯定的態度の現われであると言える。だが、他方、障害を持つ本人による肯定とは別に、親の選択としては否定できない(「その選択もありではないか」)という認識も見られる。
ところで、この「その選択もありではないか」という認識が生じた文脈は、この個人によってかなりの程度意識化されていると思われる。そして、この文脈の意識化は、これまでの分析過程において明らかになった意識化過程の所産であろう。この文脈は、次のような過程において意識化されてきたと考えられる。
まず、ここに到って、技術的に作られた生に対する「懐疑」の意識化が高まっている。そのことが、「技術的なことを加えるより」という表現に現れている。ここで、「技術的なことを加える」とは、生それ自体の操作としての遺伝子改造である。遺伝子改造によってもたらされる、技術的に作られた生に対する懐疑の意識化が進むとともに、それへの負の価値付けがもたらされる。そして遺伝子改造との対比において、先の「親の選択としては否定できない(「その選択もありではないか」)という認識」が生成されたと言える。
ここで直ちに気づくのは、「遺伝子改造という技術的な付加よりも受精卵を選別・廃棄することの方がまだしも許容され得る」という判断または認識が技術の肯定しか意味しないということが、この個人によって認識されてはいないのではないか、ということである。実際、そのレベルまでの認識はここには無い。
だが、こういった意識化のあり方、またはこういった文脈の形成過程は、かなりありふれたものであると考えられる。先に、「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列(システム)として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果が普遍化可能ではないかと述べた。この仮説は、今見た意識化過程あるいは文脈の形成過程が、かなりありふれたものであろうという仮説と呼応している。「この私の文脈」の整合的な認識が困難であるからこそ、「遺伝子改造よりも受精卵の選別・廃棄の方がまだしも許容され得る」という認識がありふれたものとして生まれるのである。
言うまでもないが、もしこの個人が、自らの全認識過程を整合的なシステムとして意識化していたとすれば、遺伝子改造も受精卵の選別・廃棄も同じ技術の地平において整合的に位置づけられたはずである。従って、前者よりまだしも後者が許容され得るという認識は、それ自体矛盾をはらむものとして鋭く意識化されたはずである。
だが、これも言うまでもないことだが、事態はこのような単純化を許すものではない。まず、この個人が、上述の「矛盾」を認識し得たかそれとも認識し得なかったかという単純な二者択一は成立しない。その意味で、本来ここで素朴な意識(認識)の矛盾を想定することはできない。先の個人は、何らかの文脈の形成過程において、すでに上記両者の選択肢が、ともに技術的な生命の選別・加工であることを意識化または認識しているとも言えるのではないか。その上で、「親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない」と記述しているのではないか。
すなわち、「親としての不安」が抹消不可能であるというある意味で論理を超えた「事実」、そしてそういった「事実」に直面した個人が、「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択を行うという「事実」を、何らかの「価値」に解消することなく受け止めている。その上で、個人またはカップルの選択行為の「事実」を「完全否定できない」としているのである。
なお、以前考察したように、この「事実」は、こういった選択行為が、その遂行過程において、個人またはカップルの「価値観」を同時に成立させるという「事実」をも含む。
 この個人の応答を、ある種の科学的な分析資料として捉え、例えば「アンビバレントまたは葛藤タイプ」などと分類することは容易である。だが、こうした応答を、その文脈の生成過程において捉え返す必要がある。その作業によって、これまでの科学的分析において単純に判断不能タイプ等として位置づけられてきた資料の基底をなす「無意識」の文脈の生成過程があらためて分析可能になるだろう。「無意識」の文脈の生成過程は、いわば考古学的な、絶えず流動する地層のシステムとして、ある個人の想定された「言表行為」の連鎖において掘り起こされていくことになる。
 ある個人の、すでに行われてしまった「言表行為」の連鎖が位置する文脈を、残されたその個人の言表群の分析によって考古学的に再構成すること、フーコーの「知の考古学」以来、いまだ方法論的に確立されていないこの作業が、現在求められている。この「言表分析」の方法論を精錬し仕上げていく過程で、例えば茂木健一郎氏らが取り組んでいる脳神経科学をベースにした認識・洞察・質的直観(クオリア)の偶発的創造(創発)過程の研究等の方法論との統合も、探究のターゲットとして構想され得るだろう。


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